うつを解消していくために―<いのちの働き>を感じるための三つのヒント
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
今回は、うつを解消するために、<いのちの働き>を感じるための方法について書いてみたいと思います。
前回や前々回の記事などでは、<うつ>の症状や、うつ病という心の問題を少しでも解決するために、心理カウンセラーの諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』や、『〈むなしさ〉の心理学』、『人生に意味はあるか』などを取り上げてみました。
そして、人生のむなしさや苦しみを少しでも解消していくためのヒントとして、諸富祥彦氏が出会うことになった<いのちの働き>というものを紹介してみました。
以下、おさらいですが、諸富祥彦氏の著作のなかの、<いのちの働き>に関する記述を引用します。
私はこれまで気づかずにきたけれど、この何かはずっと前からそこに与えられていた。私を生かし、私をあらしめ、私を成り立たしめてきた。つまりこの何かこそ、私の真実の主体なのだ。そして今、この何かがそれ自体で立っている。だからその結果、私も立っていられるのだ。
この「何か」は「働きそのもの」である。あえて名前を付ければ<いのちの働き>とでも呼ぶよりほかない何かである。私の底の<いのちの働き>。(略)
つまり私は、<いのちの働き>に生かされている。
(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p185~186)
私はそれまで、自分がどう生きるべきかと悩むのに忙しくて、それに気づかずにきたけれど、このはたらきは、実は、ずっと前からつねにすでに与えられており、私を生かし、私をあらしめ、私を成り立たしめてきていた、ということ。つまりこの「はたらき」こそ私の真実の主体であり、この「はたらき」がそれ自体ではたらいているからこそ、それによって、私も立っていられるのだということ。むしろ「私」は、このはたらきの一つの形にすぎない、ということ。
(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p198~199)
この「はたらき」は、天然自然。意味無意味を超えた「いのちのはたらき」です。その意味でそれは、超・意味です。またそれは、意味があるとかないとかいう観念的な意味づけに先立って、ずっと前からそこではたらいていたものです。その意味でそれは、前・意味であり、脱・意味であると言うこともできるでしょう。
この「はたらきそのもの」について語るとき、忘れてはならないのは、その「つねに、そしてすでに」という性質です。
(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p198)
なぜ、この<いのちの働き>には、生きることのむなしさや苦しみ、悩みなどを解消する力があるのでしょうか?
思うに、この<いのちの働き>は、自分自身を変化させてくれるきっかけを与えてくれたり、自分を変化させてくれるチカラが宿っていたりするからなのではないでしょうか?
<いのちの働き>を感じるとは?
ところで、この<いのちの働き>とは、肉眼では確認しづらく、簡単には言葉にできない「見えない何か」であり、科学を中心とした合理的な思考だけでは捉えきれない、生命そのものともいうべき<何か>なのだとも言えます。
そのため、ただ頭で考えているだけでは、なかなか気づくことが出来ない性質のものなのであり、何でも物事を論理的に考えたり、科学的なデータを重視したりする人にとっては腑に落ちず、もしかしたら、何かの宗教に勧誘されているみたいで、どこか胡散臭いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし以前の記事で書きましたが、うつの症状に悩まされていた私自身が、文学や哲学、宗教、精神医学に関する本を読み、考え、やがて、<私>という存在は、私自身の力のみによって生きているのではなく、<見えない何か>によって生かされているのだ、ということに気づくことで、自分自身の心の問題を解決していったという経緯があります。
また、私自身、どこかの教団に属し、特定の宗教を信仰をしているわけではありませんが、毎日の生活に、呼吸を深めることや、ヨガ、マインドフルネス瞑想などを取り入れることで、<いのち>や<からだ>を感じる時間を増やしてみることで、何でも頭の中で考えていた頃よりも、気持ちが楽になりましたし、体調も良くなったのです。
それは、<あたま>ではなく、<からだ>から生きるためのチカラをもらっているという感覚であり、生きていること自体が、気持ちよいと感じられることでもありました。
そのため、<いのちの働き>とは、生きている限り、誰にでも最初から共通して与えられているものなのだと私自身は感じますし、<いのちの働き>に目覚めることは、決して特定の宗教を信じたり、スピリチュアルな世界に傾倒したりすることと、直接結びつくわけではないと思うのです。
私自身がここでお伝えしたい<いのちの働き>に目覚めるとは、分かりやすくいうと、頭のなかでいろいろと考えすぎてしまう時間を減らし、代わりに自分以外の存在を<感じる>時間を増やすということなのです。
うつを解消していくためには、心の中に感じる部分をもつことも大切
<いのちの働き>を感じるためのレッスン
そういうわけで、ここではその<いのちの働き>を個人のレベルで少しずつ感じられるようにするレッスンを三つ紹介してみたいと思います。
その<いのちの働き>を感じるための三つのレッスンとは、
です。
1、自然に触れる
自然のなかには、生命力に満ちた自分以外の存在が、溢れているように思います。
山のなかを散策すれば、森のなかの樹々や草花、小鳥のさえずりなどに気づかされますし、海をしばらく眺めていれば、ひとつとして止まることのない波の動きに圧倒されたり、癒されたりします。
また、遠出しなくても、晴れた日は近くの公園で日光浴をするのもオススメです。わたしたちを生かしてくれている太陽の光をしばらく浴びていれば、そのぶん、エネルギーが充てんされ、元気をもらうこともできます。
もちろん、自然のなかで、呼吸を深めながら五感をフルに働かせ、マインドフルネス瞑想を行なったり、身体を動かしたりするのもお勧めです。
2、ゆっくりとした運動を行う
ゆっくりとした運動を行うことで、自分の<からだ>があること、すなわち生きている事、<いのちの働き>に気づきやすくなります。一方、普段から頭で考えてばかりだったり、俯いてスマートフォンなどを操作していたりすると、身体性を意識しにくくなり、からだも柔軟性を失って固くなってしまいます。
しかし<いのちの働き>を感じられるような、ゆっくりとした運動によって<からだ>が良い方向に変わることが出来れば、その分、心の状態も良い方向へ変化していくことは十分考えられます。
ゆっくりと動くことによって、これまで自分が感じることが少なかったカラダの部分を微細に感じられるようになれば、そのことが、<いのちの働き>を感じることにつながっていきます。
そのためのゆっくりとした運動としては、ヨガや太極拳などが挙げられますが、ストレッチやスロージョギングでも構いませんので、自分が始めやすい運動を見つけてみると良いと思います。
3、<食べること>を意識する
私たちは毎日食事を行っていますが、食べる事とは、生きるために、自分以外の存在から、<いのち>をいただいている行為に他なりません。
しかし毎日の食事が、コンビニエンスストアやスーパーマーケットで買える加工食品ばかりになってしまうと、どういうわけか、<いのち>を頂いているという感覚が稀薄になっていきます。
また、加工食品の多くは、栄養素がきちんとバランスよく含まれていないため、食事の中心がカップラーメンなどの加工食ばかりになってしまうと、栄養不足によって心と身体の元気が失われる可能性もあります。
そのため、新鮮な野菜や果物など、精製されていない食べ物を、ゆっくりと咀嚼しながらなるべく舌で味わうようにする事も、日頃から<いのち>を感じるようにするトレーニングになります。
そのほか、私たちは、自分の力だけで生きているのではなく、腸に生息する腸内細菌など、無数の微生物たちによって生かされている(共生している)という事実も、忘れてはならないような気がします。したがって、腸内細菌のエサになる食物繊維を多く摂ることも大切になってくると考えられます。
以上、ここまで<いのちの働き>を感じるための三つのヒントを紹介してみました。
少しずつで出来る範囲で構いませんので、自分なりに<いのちの働き>に触れるために、
- 自然に触れる
- ゆっくりとした運動を行う(ヨガなど)
- <食べること>を意識する
というこれらの習慣を続けてみてください。
もしかしたら、心の悩みを解決するヒントが何か見つかるかもしれません。
うつを緩和するには、腸内環境の改善と糖質制限、食事・運動・瞑想が大切です。
人は何のために生きるのか?-『人生に意味はあるか』
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
今回の記事では、諸富祥彦氏の別の著作である『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)を取り上げながら、「人は何のために生きるのか?」ということに少しふれてみたいと思います。
前回の記事では、うつという心の問題を少しでも解決していくために、諸富祥彦氏の『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』を紹介しながら、人生における満たされない<むなしさ>を解消するためのヒントについて考えてみました。
そして、私たちは<いのちの働き>によって生かされているということに気づくことが、満たされない<むなしさ>を解消するきっかけになるのではないか、と述べてみました。
今回取り上げる『人生に意味はあるか』のなかでは、諸富氏は「人は何のために生きるのか」「人生のほんとうの意味と目的は何か」の答えとして、以下の三つを挙げています。
1、「〝人生のほんとうの意味と目的〟をどこまでも探し求め続けるため。最後まで求めぬくため。」
2、「その極限において、究極のリアリティである〝いのちのはたらき〟に目覚めるため。そして、この私も、ほかならないその〝はたらき〟がとった一つの形であることに――〝いのちが私している〟という真理に――目覚めて生きるため。」
3、「今あなたが置かれている状況からの日々の問いかけに応え、あなたの人生に与えられた使命を果たし、〝未完のシナリオ〟を完成させていくため。」
諸富祥彦氏は、「人生の意味や目的」についての答えとして、このように述べており、これらの答えに興味が湧いた方は、実際に本書『人生に意味はあるのか』を手にとってみていただきたいと思います。
しかし実際のところ、「人生に意味や目的はあるのか?」という問いは、思い悩む当人にとっては非常に答えを出すのが難しい問題と思われます。
なぜ答えを出すのが難しいのかといえば、その理由は、どのようなことに「人生の意味や目的」を見出すかは、人それぞれ違ってくるからです。
そのため、本から影響を受けたり、他人からアドバイスやヒントをもらったりしたとしても、自分にとっての「人生の意味や目的」を見出せるのは、最終的には自分自身以外にいないのです。
何のために、生きるか。
人はなぜこの世に生まれ、そして何のために生きていくのか。
この問いは、老若男女を問わず、これまで無数の人々が幾度となくつぶやき、そして途方に暮れてきた問いです。昨日も、今日も、そして明日も、どこかで誰かが、この問いをつぶやいていることでしょう。
人はみな、いずれ死ぬ。
気づいたときにはこの世に産み落とされ、そして生き、さまざまな苦しみや喜びを経験して、その末にいやおうなく命を奪われていく。自分の意志とはかかわりなしに……。
自分がどこから来て、どこに行くのか。それすら知らされないまま、どう生きるべきかを考えながら、生きていくよう定められた存在。それが人間。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p7~8)
諸富祥彦 『人生に意味はあるか』 講談社現代新書
ですが、諸富祥彦氏の『人生に意味はあるか』は、「人生には意味や目的があるのか?」という、簡単には答えが出ない問いについて悩んでいる方は、一度読んでみても損はないと思います。
なぜなら、著者の諸富氏は、この本について、「この本に紹介されたさまざまな考えを、あくまで参考にしながらも鵜呑みにはせず、「自分の人生の意味と目的を自分で探求していく道」を歩んでいただきたいと思います」と述べているからです。
科学的知識と異なり、人生の真理には、ある種の体験を経なくてはなかなか理解できないことがあります。
したがって私は、「どんな答えに行き着くか」よりも、「どう探し求めるか」「どれほど本気で答えを探し求めるか」のほうが、より重要であると思います。人生の真理は、あくまで自分の体験を通して得たものしか、自分のものにはならないからです。
読者の方には、この本に紹介されたさまざまな考えを、あくまで参考にしながらも鵜呑みにはせず、「自分の人生の意味と目的を自分で探求していく道」を歩んでいただきたいと思います。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p11~12)
諸富祥彦氏は「人生に意味はあるか?」という問いの答えを見つけるヒントを、本書において、宗教や文学、哲学、スピリチュアリティ、トランスパーソナル心理学やフランクルの思想などから探り出そうとしています。
そして、第7章に「私の答え」として、「いのちが、私している」ということについて述べています。
<いのちの働き>は「意味」を超える
<いのちの働き>に出会ったという諸富氏の経験については、「むなしさ」について書いた前回の記事でも述べましたが、氏は、「中学三年生の春から、おおよそ七年もの間、「人生の意味」を求め、いくら求めてもそれが求められずに苦しんで」いたといいます。
しかし大学三年の時に、疲れ果てた氏は、観念してその問いを放り投げてしまったというのですが、力尽き、「問いを投げ出した」ことで、「なぜか倒れることも崩れ落ちることもなく、立つことができている自分の姿」を見たと述べています。
この時に出会ったのが、気づかないだけで前からずっとあった、<いのちの働き>と呼ばれるものです。
私はこれまで気づかずにきたけれど、この何かはずっと前からそこに与えられていた。私を生かし、私をあらしめ、私を成り立たしめてきた。つまりこの何かこそ、私の真実の主体なのだ。そして今、この何かがそれ自体で立っている。だからその結果、私も立っていられるのだ。
この「何か」は「働きそのもの」である。あえて名前を付ければ<いのちの働き>とでも呼ぶよりほかない何かである。私の底の<いのちの働き>。(略)
つまり私は、<いのちの働き>に生かされている。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p185~186)
この瞬間に、私ははじめてこの「はたらき」が、うずを巻いて現成したのを見たけれど、実はそれは、ずっと前からそこにあった。あったどころか、私が生まれてからこの方、いつもずっと、私を成り立たしめてくれた当のものであったのです。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p198)
私はそれまで、自分がどう生きるべきかと悩むのに忙しくて、それに気づかずにきたけれど、このはたらきは、実は、ずっと前からつねにすでに与えられており、私を生かし、私をあらしめ、私を成り立たしめてきていた、ということ。つまりこの「はたらき」こそ私の真実の主体であり、この「はたらき」がそれ自体ではたらいているからこそ、それによって、私も立っていられるのだということ。むしろ「私」は、このはたらきの一つの形にすぎない、ということ。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p198~199)
そして、『人生に意味はあるか』の著者である諸富祥彦氏は、この<いのちの働き>に目覚めることで、思い悩む必要がなくなり、「悩みそれ自体が消え去っていった」と述べています。
<いのち>を生きることがうつをやわらげるきっかけになる
もちろん、だからといって、人生の意味に悩む多くの方が、悩みが消え去るほどの<いのちの働き>を、日常生活において経験するとは限らないと思います。
ですが、諸富氏のいう「いのちのはたらき」について考えてみること、あるいは感じてみることは、人生の意味や目的を解決するヒントになるのではないか、と私自身は思います。
また、「人生の意味や目的」は、頭のなかで考え抜いて導き出すだけではなく、もしかしたら自分という存在の外側からやってくるのかもしれない、もしくは、気づかないだけですでにそこにあるのかもしれない、という視点を持ってみることも大切ではないでしょうか?
この「はたらき」は、天然自然。意味無意味を超えた「いのちのはたらき」です。その意味でそれは、超・意味です。またそれは、意味があるとかないとかいう観念的な意味づけに先立って、ずっと前からそこではたらいていたものです。その意味でそれは、前・意味であり、脱・意味であると言うこともできるでしょう。
この「はたらきそのもの」について語るとき、忘れてはならないのは、その「つねに、そしてすでに」という性質です。(諸富祥彦『人生に意味はあるか』 p198)
前回の記事と同様、この諸富氏の<いのちの働き>との出会いの経験をなぜ取り上げたのかといえば、実は私自身も、20代のあいだは、「何のために生きるのか」「人生に意味はあるのか」という問いに悩まされており、うつの状態になることが多かったからです。
また、諸富祥彦氏のように劇的ではありませんが、<いのちの働き>に気づくことで、自分が抱えている心の問題を解決していったという経緯があるからなのです。
私自身の体験は、文学や哲学、宗教、精神医学に関する本を読み、考え、やがて、<私>という存在は、私自身の力のみによって生きているのではなく、<見えない何か>によって生かされているのだ、ということに気づくことでした。
そして、毎日の生活に、呼吸を深めることや、ヨガ、マインドフルネス瞑想などを取り入れることで、<いのち>や<からだ>を感じる時間を増やしてみました。
すると、ろくに体を動かさず、何でも頭の中で考えていた頃よりも、気持ちが楽になりましたし、体調も良くなりました。
もちろん、自分の身に起きた出来事や天候の影響など、何かのきっかけで、気持ちが沈み込むことはありますが、それでも<いのちの働き>と呼ばれるような、目に見えない何かに関心を持つようになってからは、以前より気分が落ち込むことは少なくなったと思います。
人生をより豊かにするために、いのちを感じる時間をもってみる
ひとつお断りしておきたいのは、この記事の内容は、<いのちの働き>に目覚めることで、特定の宗教を信じたり、スピリチュアリティに根差した生き方を押しつけたり、何かのセラピーやワークへの参加を勧めたりするものではない、ということです。
ただ、頭のなかでいろいろ考えすぎるのを止め、代わりにゆっくりとした運動や、呼吸法、瞑想などを行うことで、<からだ>や、そのからだを生かしている<いのち>を感じる時間をもつようにしてみることは、うつを少しでもやわらげるきっかけになるのではないか、と思うのです。
このことはあくまでひとつの提案ですが、考えるだけではなく、何かを感じてみることも、人生をより豊かなものにするために必要であるような気がします。
うつを緩和するには、腸内環境の改善と糖質制限、食事・運動・瞑想が大切です。
〈いのちの働き〉は満たされない「むなしさ」を解消するヒント
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
前回の記事では、はうつという心の問題を少しでも解決していくために、諸富祥彦氏の『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』を紹介しながら、生きることの<むなしさ>について考えてみました。
今回の記事では、『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』を取り上げながら、人生においてなかなか満たされない〈むなしさ〉を解消するヒントについて考えてみたいと思います。
前回、私は、どういうわけか「満たさない」「むなしい」「生きていることに意味はない」などと、つい思ってしまうのには、個人の心の問題だけではなく、個人の心をなおざりにした、産業中心・利益重視の社会構造も関係しているように思うと書きました。
そのため、ふとした瞬間に「生きることのむなしさ」を感じてしまうことは、自分の気持ちに敏感な人にとっては、ごく自然なことのように思います。
そして、前回のおさらいですが、その時々感じられる「むなしさ」を、「私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージ」として受け取ることが大切だと、諸富祥彦氏は述べていました。
どこかむなしい。つまらない。
心の底から満たされる「何か」が足りない、という心のむなしさ。
時折おとずれるこの「心のつぶやき」を、私たちはふつう、何かよくないもののようにして、それから身を遠ざけようとする。
(中略)
けれど、実はこれは、たいへんにもったいないことである。むなしさは、私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージだからである。
だから、私たちのむなしさからの出発は、自分の内側で口が開けているそのむなしさから目を逸らさずに、きちんとそれを見つめることから始めなくてはならない。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p106~107)
また、諸富氏は、「むなしさから目をそらさず、しっかりと見つめる」こと、そして、「あくまで自分自身の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていくということ」も、人生のむなしさという悩みを解決するために必要になってくるとしています。
むなしさを解決するヒント<いのちの働き>
ちなみに『〈むなしさ〉の心理学』を書いた著者の諸富祥彦氏も、若い頃、「「何のために生まれてきたのか」「どう生きればいいのか」という問いにつかれて悩み苦しんでいた」といいます。
しかし大学三年の時に、疲れ果てた氏は、観念してその問いを放り投げてしまったというのですが、しかし力尽き、「問いを投げ出した」ことで、「なぜか倒れることも崩れ落ちることもなく、立つことができている自分の姿」を見たと述べています。
そして、以下のように述べています。
私はこれまで気づかずにきたけれど、この何かはずっと前からそこに与えられていた。私を生かし、私をあらしめ、私を成り立たしめてきた。つまりこの何かこそ、私の真実の主体なのだ。そして今、この何かがそれ自体で立っている。だからその結果、私も立っていられるのだ。
この「何か」は「働きそのもの」である。あえて名前を付ければ<いのちの働き>とでも呼ぶよりほかない何かである。私の底の<いのちの働き>。(略)
つまり私は、<いのちの働き>に生かされている。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p185~186)
ここで、諸富祥彦氏が述べている<いのちの働き>とは、「私の底」に与えられている、「私自身よりも大きな何かの働き」のことです。
しかし、いきなり<いのちの働き>といわれても、漠然としているため、うまくイメージできないかもしれません。そこで諸富氏は、<いのちの働き>について以下のように説明しています。
<いのちの働き>とは何なのか、まだ今ひとつよくわからない方もおられるだろう。
けれど私が言っているのは、実は少しも難しいことではない。
イメージのわかない方は、次のような場面を思い浮かべてほしい。
いろいろなことが思うように運べばない。悩んでも悩んでも、ちっとも事態は変わらない。
にっちもさっちもいかなくなって、死にたいと思うのだけれど死にきれない。自分の置かれている現実から逃げるわけにはいかないことがわかっている。
けれどふと、あまりの重苦しさに耐えきれなくなって「もう、どうにでもなれ」「どうなったって、かまわない」と、すべてを投げ出してしまいたくなる。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p190)
そんな時私たちは、それでも自分のからだの内側に、ほのかに息づく何かを感じることがある。死のうが生きようが関係ない。そのような私たちの思い煩いとは関係なく、からだの内側で勝手に生き働いている何かを感じることがある。
それが、ここで言う<いのちの働き>である。それは、私たちがすべてを投げ出してしまった後でも、それに関係なく、勝手に生き働いている。それは、それ自体生命を持ち、意志を持つ何かである。(同)
諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』 講談社現代新書
<いのち>を感じることは「むなしさ」を解消するヒント
ここまで「むなしさ」を解消するヒントを考えるために、『〈むなしさ〉の心理学』の著者である諸富祥彦氏が述べる<いのちの働き>というものに触れてみました。
なぜここで<いのちの働き>というものを取り上げたのかといえば、実は私自身も、20代のあいだは、「何のために生きるのか」「生きていることはむなしい」「どうせいつか死んでしまう」という考えに悩まされており、諸富祥彦氏と同じように、<いのちの働き>に気づくことで、自分が抱えている問題を解決していったという経緯があるからです。
私自身の体験は、諸富氏のように劇的なものではないかもしれませんが、ひたすら文学や哲学、宗教、精神医学に関する本を読み、考え、やがて、<私>という存在は、私自身の力のみによって生きているのではなく、見えない何かによって生かされているのだ、ということに気づくことでした。
そして、この「見えない何か」とは、科学を中心とした合理的な思考だけでは捉えきれない、生命そのものともいうべき<何か>なのであり、ただ頭で考えているだけでは、なかなか気づくことが出来ない性質のものなのです。
このように述べると、何か怪しい宗教を信じているようでどこか胡散臭いと感じる方もいらっしゃるのかもしれませんが、「見えない何かによって生かされている」という感覚は、特定の宗教を信じることと、すぐに結びつくわけではありませんし、「見えない何かによって生かされている」という感覚に気づいたからといって、何かの宗教を信じる必要はありません。
そのようなことよりも、ただシンプルに、いま<私>が生きていられるのは、「私たちの思い煩いとは関係なく、からだの内側で勝手に生き働いている何か」、すなわち<いのちの働き>のおかげだと気づくことが、人生における満たされない「むなしさ」を解消するヒントになるように思うのです。
なぜなら、<いのちの働き>とは、生きている限り、誰にでも最初から共通して与えられているものだと言えるからです。
では、この<いのちの働き>に気づくにはどうしたら良いのでしょうか?
その答えとしてはまず、胸に手を当てて心臓の鼓動を感じたり、お腹に手を当てて深く呼吸してみたりすることで、<からだ>は私が頭でいろいろ考えることと関係なく、常にあたたかく生きているということを実感してみることが挙げられます。
うつを緩和するには、腸内環境の改善と糖質制限、食事・運動・瞑想が大切です。
生きることの空しさと向き合う―『<むなしさ>の心理学』
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
今回はうつという心の問題を少しでも解決していくために、諸富祥彦氏の『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』を取り上げてみたいと思います。
以前の記事では、孤独のつらさを克服していくために、諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』を取り上げましたが、今回ご紹介する『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』という著作は、人生のむなしさを解消するきっかけをつかむためにオススメです。
現代社会においては、「何のために生きるのか?」「なぜ生きることはむなしいのか?」といった問いに悩んだ経験をお持ちの方は多いのかもしれません。
また、お金のために毎日働いていても、どこか心が満たされない、と感じている方も、少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?
私自身は、どういうわけか「満たさない」「むなしい」「生きていることに意味はない」などと、つい思ってしまうのには、個人の心の問題だけではなく、生きていることが「素晴らしい」「気持ちよい」「楽しい」と感じることが出来ないような、個人の心をなおざりにした、産業中心・利益重視の社会構造も関係しているように思います。
たとえば今から20年前の1997年に出版された本書には、
どうしたわけか、私たち日本人は今、ほんとうに疲れ切ってしまっている。
モノは溢れているのに元気がない。いのちが活性化されていない。エネルギーがどこか滞っていると言ってもいい。
むなしさの時代。今私たちが生きているこの時代の、いったい何が私たちをそんなふうにさせてしまうのだろう。
(中略)
終わらない日常。見えすぎる不安。透明な閉塞感。
巨大なシステムの中に飲み込まれて暮らしている現代人。
そこには、私たちの生きる意欲をじりじりと奪い取らないではいない何かがある。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p44)
という一節がありますが、2017年の現在に読んでも、まったく違和感はありません。
おそらく、人生における「生きる歓び」が失われてしまったのは、今に始まったことではなく、どこの国でも近代化が進み、産業社会が発展するにつれて、「ひと」や心の領域のことよりも「モノ」が中心になり、日々の生活において「生きがい」や「生きる意味」を感じることが難しくなっていったように思われるのです。
そのため、ふとした瞬間に「生きることのむなしさ」を感じてしまうことは、ごく自然なことのように思います。
そして、その時々感じられる「むなしさ」を、「私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージ」として受け取ることが大切だと、諸富祥彦氏はいうのです。
どこかむなしい。つまらない。
心の底から満たされる「何か」が足りない、という心のむなしさ。
時折おとずれるこの「心のつぶやき」を、私たちはふつう、何かよくないもののようにして、それから身を遠ざけようとする。
(中略)
けれど、実はこれは、たいへんにもったいないことである。むなしさは、私たちの人生に何が欠けているかを告げ知らせてくれる貴重なメッセージだからである。
だから、私たちのむなしさからの出発は、自分の内側で口が開けているそのむなしさから目を逸らさずに、きちんとそれを見つめることから始めなくてはならない。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p106~107)
むなしさから目をそらさず、しっかりと見つめる
本書『〈むなしさ〉の心理学』のなかでは、フランクルの心理学やトランスパーソナル心理学などを紹介しながら、具体的に「むなしさ」を超えていくためのヒントが多く記されていますが、重要なのは、「むなしさから目をそらさず、しっかりと見つめる」ことだといいます。
むなしさから目をそらさず、しっかりと見つめる。
そして自分の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていく。
私が今、話しているのは、たったこれだけの実にシンプルな方法である。
これはしかし、きわめてしんどい作業である。
現代社会には、もっと手軽で簡単に「生きる意味」を与えてもらえそうな魅惑的な商品がゴロゴロ転がっている。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p123)
ちなみに「魅惑的な商品」とは、自己啓発セミナーや新興宗教、瞑想、チャネリングなどのことで、諸富氏は、これらを「頭ごなしに否定するつもりはない」「いい経験ができればそれでいい」としています。
しかし、「質の悪いセミナーやセラピーのすべてに通じるのは、ほかの誰かや既成の理論を「信じる」ことから始まる、という点である」と述べており、誰かの理論を「信じる」ことから始まるような、魅惑的な商品に安易に自分を委ねてしまうことは問題だとしています。
いずれにせよ、そこでは、自分がこれからどう生きるかを、ほかの誰かに委ねてしまっている。これは、自分の人生に対する責任放棄、責任転嫁にほかならない。
くり返し言おう。「生きる意味」を問い求める時に、一番大切なこと。それは、自分のむなしさから目を逸らさずに、それをしっかり見つめること。そして、あくまで自分自身の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていくということ。
このきわめてシンプルで厳しい道のりを、どこまでも歩んでいくことである。(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』p124)
諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学 なぜ満たされないのか』 講談社現代新書
生きることの「むなしさ」を解消するのは、決して簡単なことではないかもしれません。
しかし簡単に解消されることのない「むなしさ」の問題を解決するヒントは、「むなしさ」から目を背けるためにお金を使って特定の商品を買うことではなく、まず、「自分のむなしさから目を逸らさずに、それをしっかり見つめること」にあるのだと思います。
そしてそこから、今度は「あくまで自分自身の頭と心とからだとで、「生きる意味」をどこまでも問い求めていくということ」が必要になってくると諸富氏は述べていますが、もし自分で生きる意味をどこまでも問い求めていくことが出来れば、時間はかかるかもしれませんが、少しずつ、生きることのむなしさが解消されていくように思うのです。
孤独を克服するためのヒントとは?―『孤独であるためのレッスン』
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
今回はうつという心の問題を少しでも解決していくために、前回の記事では、心理カウンセラーである諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』という本を取り上げましたが、今回はこの諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』を紹介しながら、孤独を克服するためのヒントについて考えてみたいと思います。
現代社会においては、メールはもちろんのこと、SNSやLINEなど、誰かとつながるためのツールが身の回りにたくさんあります。
しかし、実は<孤独>であることや<ひとり>でいること、もしくは、親身になって自分の話を聴いてくれる人が一人もいない、ということについて悩んでいる方は意外と多いのかもしれません。
また、自分は本当はSNSやLINEなどのなかの仲間の輪に参加したくないと思っているのに、必要以上に<孤独>であることを怖れたり、ひとりになることに不安を感じたりするため、仕方なく誰かとつながっているふりをしている場合もあるのではないでしょうか?
このような現代人の孤独感について諸富祥彦氏は、『孤独であるためのレッスン』のなかで、
「ひとりでいるという事実よりむしろ、「あいつはひとりだ」「ひとりでいる変なヤツだ」と周囲や世間から思われているまなざしを気にかけ、自分で自分を追い詰めている」
としています。
そして、孤独は良くないことだとする世間の目を気にするあまり、劣等感をつのらせ、その結果、「自分の孤独を、ひとりでいることを肯定的に受け止め、ひとりのままで人生をエンジョイ」できていないと述べています。
私自身は、<孤独>であること、<ひとりでいる>ことは、決して「悪い」ことではないと思います。
そのため、<孤独>であることを肯定的に捉える立場ですが、しかし、「家族も友達も恋人もいらない」と宣言し、あえて一人ぼっちになって生きようとするような生き方を推奨するつもりはありません。
むしろ諸富氏が、
〝ひとり〟でいることのできない人間関係は、たいへん不自由なものです。絶えず他人の視線を気にし、他人と自分を比較し、評価し続ける、がんじがらめの人間関係です。人間関係の〝評価〟や〝しがらみ〟に捕らわれた生き方、と言ってもいいでしょう。
一方、〝ひとり〟でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。他人の視線はあまり気になりませんし、他人と自分を比較したり、評価し続けたりすることもありません。他者とのほんとうの〝つながり〟に開かれた生き方と言ってもいいでしょう。
そうです。私たちはまず、〝ひとり〟でいる決意をしなくては、真の人間関係に、真の〝つながり〟に開かれることもできません。
〝ひとり〟でいる決意をし、自分の孤独を深めることができた人にだけ、他者との真の出会いも可能になるのです。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p20)
と述べているように、あえて孤独を選択することによって、「他者との真の出会い」を求めていくことが可能になるように思われるのです。
孤独な人が、その孤独をまっとうして生きていくためには、心のうちで、人間を超えた〝何ものか〟と対話しながら生きていくような視点を保持することが不可欠であると、私は思います。人が、その孤独を貫いて生きていくには、心のうちで、自分を超えた何かと対話しつつ生きていくことが不可欠である、と思うのです。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p181)
そうしたまなざしさえ欠いたまま―つまり、単に物理的に孤独であるだけでなく、心のうちにも対話の相手を持たずに文字通りたったひとりで―孤独を貫くことができるほど、人間は強い生き物ではないからです。大切なのは、物理的にひとりであるかどうかではない。心のうちに対話の相手を持った孤独こそ、真に充実した、鍛えられた孤独なのです。(同)
<孤独>を積極的に受け入れることで現代社会をよりよく生きる
また、諸富祥彦氏が、「心のうちにも対話の相手を持たずに文字通りたったひとりで―孤独を貫くことができるほど、人間は強い生き物ではない」と述べている通り、現実社会にも、心のうちにも、対話の相手がいないというのは、生きていくうえでかなりしんどいのです。
しかし、かといって、ちょっとした孤独に耐え切れず、安易にパソコンやスマートフォンの世界のなかで簡単に誰かとつながろうとしてしまっては、自分が<孤独>によって鍛えられることは決してありません。
大切なのは、多少、不安になったり、つらさやさみしさが襲ってきたとしても、そこから逃げ出さないこと。しばらく、じっと、そこにいること。そこに、とどまり続けることです。
孤独であることの不安やさみしさに耐え、じっとそこにとどまっていると、次第に孤独であることの新たな意義が見えてきます。新しい感覚が生まれてきます。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p244)
まず行うべきは、自分のなかの孤独と向き合い、孤独であることを肯定し、自分が孤独であることを受け容れることなのです。
孤独を恐れるな。
孤独は、人生の普遍的な本質であり、人間であることの真実なのだから、孤独であることをみずから積極的に引き受けよ。
人はみな、ひとりで生きていく。
この真実を深く引き受けた人間だけが、自分自身と対話し、より深い心の知恵を聴きながら、生きていくことができる。自己との対話を絶えず積み重ねることでしか手に入れることのできない、精神の厚みを増すことができる。
つまり、孤独な人間だけが、自分自身と対話し、自己と出会うことができる。
また、そのようにして、自分自身と出会い、自分の心の声を聴くことのできる孤独な人間同士だけが、深く出会うことができる。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p172)
まずは自分が孤独であることを引き受ける勇気を持つ
真に孤独を乗り越えることは、簡単ではありません。
孤独を克服したつもりでも、何かのきっかけで<ひとりであること>のつらさや寂しさを感じることはあると思いますし、それは人間としては当たり前だとも思います。
しかし<孤独>と向き合うことによって、初めて出会うことが出来る<つながり>もあるのだと思います。
そのつながる相手とは、単純に人とは限らず、自分自身の知らない部分であったり、本のなかの登場人物や作者であったりするかもしれません。もしくは、自然のなかの動物や植物、鉱物、神秘的な風景などかもしれませんが、そのつながる相手とは、もし孤独を自分で受け入れなかったら、決して出会えなかった<何か>なのであることは確かです。
このことは反対に言えば、いくら孤独を感じているとしても、私たちは現実世界に生きている以上、本当はつねに何らかの存在とつながっているのだということを意味するのであり、孤独を感じている間は、ただ、そのことに気がついていないだけかもしれないのです。
そのため、孤独を克服するためにまず大切なのは、自分が孤独であることを引き受ける勇気なのです。
もし、孤独を癒すことのできる人間関係がありうるとすれば、それは、その関係の中で、互いがより深く孤独に徹していけるような人間関係、その関係の中で、互いがますます深くひとりになり、自分自身になりきることができるような人間関係でしか、ありえないであろう。
孤独は素晴らしい。
人が真の自分に出会うのも、自分の人生で何がほんとうに大切かを知るのも、すべては孤独において、である。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p254)
<孤独であること>を本当の意味で克服することは難しい
ここまで孤独を克服するためのヒントについて、『孤独であるためのレッスン』を紹介しながら書いてきましたが、もちろん、私自身、<孤独>であることを真の意味で解決したわけではありません。
先ほども述べましたが、たとえ孤独を克服したつもりでも、大事なものをなくしたり、誰かを失うという離別の悲しみを味わったり、急に寒い一日が訪れたりすることによって、心は<孤独>や<寂しさ>を感じてしまうものなのだと思います。
今回ご紹介した『孤独であるためのレッスン』を書いた諸富祥彦氏も、「忙しい毎日を走り抜けつつ、とても充実した日々を送っているつもり」でも、「突然ふと、とてつもない孤独感に襲われる」ことがあると、「おわりに」のなかで書いています。
そのため、<孤独>であることを解決するのは、決して簡単ではないかもしれませんし、いつまでも解決できないのかもしれませんが、<孤独>であることに悩んでいて、この『孤独であるためのレッスン』に興味が湧いた方は、ぜひ、実際に手に取って読んでみていただきたいと思います。
既に成熟社会を迎えた、否、成熟した大人になることが必須の課題となるこれからの日本では、〝速さ〟(効率)や〝多さ〟(量)といった水平的な尺度に価値が置かれてきたこれまでと異なり、〝深さ〟という垂直次元の尺度に価値が置かれるようになってくる。そんな時代をタフにしなやかに生き抜いていくために最も必要な能力こそ、孤独になる能力、孤独になって自分の心と対話し、想像力を駆使してものごとを多様に構想することができる〝能力〟なのです(『孤独であるためのレッスン』 プロローグより)
本書を読むことで、今よりも孤独を克服するためのヒントが見つかるかもしれません。
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『孤独であるためのレッスン』 諸富祥彦 著
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
今回はうつという心の問題を少しでも解決していくために、心理カウンセラーである諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』という本を取り上げたいと思います。
この諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』は、2001年に出版された本ですが、その内容はまったく古びておらず、孤独がつらいと感じている人にとっては、いつの時代に読んでも、心を打つものがあると思います。
今の時代は、スマートフォンやSNS、LINEで簡単に誰かとつながることは出来ますが、しかし、だからといって、本当の意味で孤独が癒されるように感じることは、少ないのではないでしょうか?
また秋冬の寒い季節になってくると、寒さによって孤独感が増し、身も心も打ちひしがれそうになります。
現代社会においては、つながるためのツールが身の回りにたくさんあるといっても、実は<孤独>であること、<ひとりでいること>に悩んでいる方は多いのではないでしょうか?
しかし<孤独>であることや、<ひとりでいる>ことは、それほど「悪い」ことなのでしょうか? 「いけない」ことなのでしょうか?
私自身は、<孤独>であること、<ひとりでいる>ことは、決して「悪い」ことではないと思います。
この孤独であることの悩みについて諸富祥彦氏は、
「ひとりでいるという事実よりむしろ、「あいつはひとりだ」「ひとりでいる変なヤツだ」と周囲や世間から思われているまなざしを気にかけ、自分で自分を追い詰めている」
と、『孤独であるためのレッスン』のなかで述べています。
つまり、孤独は良くないことだとする世間の目を気にするあまり、劣等感をつのらせ、その結果、「自分の孤独を、ひとりでいることを肯定的に受け止め、ひとりのままで人生をエンジョイ」出来ていないというのです。
そのため、著者の諸富祥彦氏は本書『孤独であるためのレッスン』を以下のような方に読んで欲しいと述べています。
・いつもまわりに合わせて生きてきて、〝自分〟というものを意識することがあまりない。
・他人の視線や評価が気になるから、〝自分〟を出すことが苦手だ。
・〝自分〟がわからなくなることがある。〝自分〟がほんとうにしたいことは何か。自分でも、わからなくなることがある。
・〝ひとり〟になるのがこわいから、いつも誰か仲間の中にいる。
・いつも友だちや仲間に囲まれて生きてきて、〝ひとり〟になったことがない。だから〝ひとり〟になる人の気持ちもわからないし、〝ひとり〟になるなんて考えられない。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p17より抜粋)
・いつもひとりでいることが多い。仲間にうまくなじめない。
・自分は人と違う。何が劣っているのでは、と思ってしまい、自信がない。
・ずっとフリーターで生きている。どこにも所属していない自分を、世間は変な人間のように思っているに違いない。
・三〇歳をすぎても結婚する気になれない。けれど親や周囲の人の視線が気になる。
・結婚はせず、子どもを産んで、シングル・マザーとして育てているが、世間の冷たい視線や無理解を感じる。
・今、不登校とか、出勤拒否の状態になっている。そんな自分を責めてしまう。
・しばらく家にひきこもっていて、こんな自分は世間から冷たい目で見られている、と感じてしまう。
(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p18より抜粋)
また、以下のような一節が、自分のなかの孤独と向き合い、孤独であることを肯定し、受け容れるために非常に参考になります。
〝ひとり〟でいることのできない人間関係は、たいへん不自由なものです。絶えず他人の視線を気にし、他人と自分を比較し、評価し続ける、がんじがらめの人間関係です。人間関係の〝評価〟や〝しがらみ〟に捕らわれた生き方、と言ってもいいでしょう。
一方、〝ひとり〟でいることのできる人の人間関係は、とても自由で、柔軟で、開かれたものです。他人の視線はあまり気になりませんし、他人と自分を比較したり、評価し続けたりすることもありません。他者とのほんとうの〝つながり〟に開かれた生き方と言ってもいいでしょう。
そうです。私たちはまず、〝ひとり〟でいる決意をしなくては、真の人間関係に、真の〝つながり〟に開かれることもできません。
〝ひとり〟でいる決意をし、自分の孤独を深めることができた人にだけ、他者との真の出会いも可能になるのです。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p20)
孤独を恐れるな。
孤独は、人生の普遍的な本質であり、人間であることの真実なのだから、孤独であることをみずから積極的に引き受けよ。
人はみな、ひとりで生きていく。
この真実を深く引き受けた人間だけが、自分自身と対話し、より深い心の知恵を聴きながら、生きていくことができる。自己との対話を絶えず積み重ねることでしか手に入れることのできない、精神の厚みを増すことができる。
つまり、孤独な人間だけが、自分自身と対話し、自己と出会うことができる。
また、そのようにして、自分自身と出会い、自分の心の声を聴くことのできる孤独な人間同士だけが、深く出会うことができる。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p172)
孤独を癒すことができるのは、人とのつながりではない。
孤独を癒すことのできる、ただ、一つの道。それは、孤独から抜け出すことではなく、より深く、より深く、その孤独を深めていくことだ。
他者とのつながりをきっぱりと断ち切って、自分の孤独を、深さの方向へ、深さの方向へと、深めていくこと。そのことによってしか孤独は癒されず、表面的な人間関係はさらに孤独を強化するだけだ。(諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』p254)
もし、孤独を癒すことのできる人間関係がありうるとすれば、それは、その関係の中で、互いがより深く孤独に徹していけるような人間関係、その関係の中で、互いがますます深くひとりになり、自分自身になりきることができるような人間関係でしか、ありえないであろう。
孤独は素晴らしい。
人が真の自分に出会うのも、自分の人生で何がほんとうに大切かを知るのも、すべては孤独において、である。(同)
『孤独であるためのレッスン』 諸富祥彦 著 NHKブックス
<孤独>であることに悩んでいて、諸富祥彦氏の『孤独であるためのレッスン』に興味が湧いた方は、ぜひ、実際に手に取って読んでみてください。
本書を読むことで、自身の内面にとって何か新しい発見があると思います。
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うつ予防・体温を上げるための3つの習慣とは?
当ブログではうつ病の予防と、うつの症状を食事と栄養(主に腸内フローラ・腸内環境改善と糖質制限)、運動と瞑想で治すための方法について書いています(あくまでうつの症状をやわらげるためのひとつの手段です)。
前回は低体温とうつの関係について書きましたが、今回はうつ予防のために体温を上げるための方法について述べてみたいと思います。
うつの症状と体温の関係については、まだはっきりとしたことが分かっていないのかもしれませんが、からだが冷えるとどういうわけか、考え方もネガティブなものになりやすいため、うつの症状と体温はどこかで関係していると考えたほうが自然であるように思います。
特に必要以上の「ストレス」にさらされてしまうと、交感神経ばかりが優位になり、そのことによって血行が悪くなって、低体温に陥りやすくなるといわれています。
では、その低体温を避けるために普段からどのようなことを行うのが望ましいのでしょうか? 体温を上げる方法には様々なものがありますが、ここではお金をかけずに手軽に出来る三つの方法をご紹介したいと思います。
- スロートレーニングを行う
- 体を温める食べ物・飲み物を摂る
- 体温+4℃の熱めのお湯に浸かる
1、スロートレーニングを行う
体温を上げるためには、普段から30分程度のウォーキングを行なったり、筋力トレーニングを行ったりすることが効果的だとされています。そのため、低体温を避けるためには、そのような運動を日頃から行うことが望ましいのですが、ここでは特に「スロートレーニング」をご紹介したいと思います。
医師の齋藤真嗣氏は『体温を上げると健康になる』のなかで、「体温を恒常的に上げるもっともよい方法は、基礎代謝を上げることです」とし、
「体温を上げるためには、筋肉を鍛えることが必要」
「筋肉を鍛えるためには、無酸素運動が有効」
「筋肉を増やせば基礎代謝は自然と上がり、基礎代謝が上がれば体温も自然と上がる」
と述べています。
そして、「加圧トレーニングに近い効果をもちながら、家庭で一人でも安全に行える「スロートレーニング」」を紹介しています。
この「スロートレーニング」とは、「非常にゆっくりとしたスピードで行う筋肉トレーニング法」のことで、「具体的にいうと、一回のスクワットを一分間ぐらい、時間をかけて」行います。
まず三十秒ぐらいかけてゆっくりと腰を落とし、また三十秒ぐらいかけてゆっくりともとの位置に戻す。これを、呼吸の回数を減らし、できるだけ無酸素に近い状態で行うのです。
トレーニング量の目安としては、一分間一回のスクワットなら、自分の体力に合わせて一〇回から一五回ほど行っていただければ、かなりの筋肉増量につながります。もし、一〇回なんてきつくてとてもできないという人は、三回でも五回でもいいので、できる回数から徐々に増やしていくといいでしょう。(齊藤真嗣『体温を上げると健康になる』p95)
普段からスクワットを行っていない場合、実際に1回のスクワットを1分間を目安に行ってみると、けっこう大変です。そのため、もしつらいというのであれば、いきなり無理せず、1回30秒を目安に、なるべくゆっくりとスクワットを行うだけでも、体温アップの効果を感じることが出来ます。またこのスクワットは、特に寝る前に行うのがオススメです。
ちなみに齋藤真嗣医師は「理想的な筋肉トレーニングは三日に一回程度です」と述べていますので、このゆっくりとしたスクワットは、毎日無理に行う必要はありません。
2、体を温める食べ物・飲み物を摂る
普段、私たちが摂っている食べ物には、実は体を温めるものと冷やすものがあるとされています。このことは中医学における「陰」と「陽」の分類による食べ物の捉え方ですが、体を温める食べ物と冷やす食べ物の要素について、石原結實医師は、『病気が治る温め方』のなかで、
- 色
- 産地
- 固いか、柔らかいか
- 熱を加えてあるか否か
- 動物性食品と植物性食品
- 塩のきいた食物
などを挙げています。
陽性食品は、外観が赤、黒、黄などの暖色をしており、固く(水分が少なく)、塩からく、北方に産する…などという特徴があります。また牛乳以外の動物性食品は陽性食品です。
よって、肉、卵、チーズ、魚介、塩、みそ、醤油、明太子、つくだ煮、漬物、根菜類は、体を温める陽性食品なのです。
逆に、水分の多いもの、青・白・緑の食物、南方産の食物は、体を冷やす陰性食品です。つまり、水、酢、牛乳、ビール、ジュース、バナナ、パイナップル、かんきつ類、コーヒー、緑茶、白砂糖…などです。(石原結實『病気が治る温め方』p24)
生姜湯や紅茶、ココアなどは、体を温める飲みものとしてよく知られていますが、特に体が冷えやすい秋冬の季節は、食品の色や産地に気をつけ、体を温める作用がある食べ物や飲み物を意識的に摂ってみることをお勧めします。
3、体温+4℃の熱めのお湯に浸かる
体温を上げるには、普段の入浴方法を少し変えてみるのも良いと思います。
夏場はぬるめのお湯にゆっくりと浸かって疲れをとるのも良いですが、体が冷えやすい冬場は、少し熱めのお湯や温泉にしっかりと浸かって、体を十分に温めてみることをオススメします。
このことに関して、たとえば免疫学で有名な安保徹氏は、お湯の温度は体温+四度が調度良いと『体温免疫力』のなかで述べています。
体温が三十六~三十七度の人であれば、一般的に言われるようにお湯は四十~四十二度が適温ですが、三十五度くらいしかない低体温の人であれば三十九度程度に調整しないと熱く感じてしまいます。
お風呂に入るといっても、すぐに湯から出てしまう「カラスの行水」では身体は温まりません。身体が芯まで温まるのにはそれなりの時間が必要になります。体温+四度のお湯に十分間、全身浴で湯船に浸かったり、半身浴で三十分から一時間浸かったりすることが効果的だと安保氏はいいます。
また、もし熱くなってつらいと感じたらその時は早めに出たほうが良いそうです。その時、めまいなど起こして転倒してしまわないように慎重に湯船から出ることが大切です。
身体を温める習慣をもつことは、うつを防ぐために大切。
以上、ここまでうつの症状を少しでも和らげるために、体温を上げるための3つの習慣ついて書いてきましたが、頑張り過ぎたり、緊張しすぎたりすると、過度のストレスによって、知らない間に交感神経ばかりが優位になり、低体温になりやすくなると思われます。
そのため秋冬のような寒い季節に限らず、暖かい季節でも、冷たい食べ物や飲み物を摂りすぎてしまうことを避け、なるべく体を温めてヒトの体温である37度を保つ習慣をもつことが、うつの改善のためには必要であるように思われます。
体を温める習慣をもつことが、うつの改善のためには必要。